あの人を許せない、信じられない、のはお互いさま

お互いさま、なんですよね

何それ?

最低!
ありえない!

というようなことをされたら

ひどい。
傷つけられた。
腹がたつ。

と思うのが普通だと思うのですが

自分にもまぁそういうところがあるのだと思うと、
あぁ、そういう時ってあるのかもね

と、流せてしまったりするのです

お互いさまなんじゃないかな
自分も完璧じゃないし、相手も人間だしね

自分の出来なさを
自分の弱さを
自分のポンコツ具合をわかってないから

他人の出来なさを
他人の弱さを
他人のポンコツ具合が許せない

のかもしれない

自分を大切にしてないと
自分以外の人のことも大切にできない

のと同じかなと思うのです

話は変わって
自分の世界さえうまくいっていたら
人様のことなんてどうでもいいのです

人が何していようが
何を言おうが
何を食べようが

なんていうか、大した問題ではなくなってきます

どうしてかは、うまく説明できないけど
自分の気分がいい時に
人のことをあれこれ言おうとは思わないし
人のことはどうでも良いし(排他的ではなく、あぁ、そうなのね。という意味)

あーあー、急いでるのね。
あーあー、あなたはイライラしてるのね。
あーあー、疲れてるのね。

と思えることって、ありませんか?

先日、信号で止まっているタクシーに
自転車に乗ったままぶつかっていき、蹴りを入れて文句を言ってるスーツを着た若いお兄さんがいまして

あー、蹴ってる、蹴ってるね。

と、私の隣にいたおじさんが笑いながら見ていて
そこだけゆるい空気が漂っていました

全く、乱暴だな。
蹴るなんて、ひどいな。
あのタクシーも何かしたんだろうな。
朝から危ないなぁ。
邪魔だなぁ。

と、一緒になって感情を波立てたり
怒りを感じてみたり
することもできるのですが

「タクシーを蹴っている」
という事実があるだけで
どう思うかは自分次第で

とすると、自分の感じ方や受け取り方次第で
現実が変わってくる

のだとしたら、
すごいことだと思いませんか?

自分で選べるのだから
どんな気分でいるのかは自分で選べるんです

そのことで

「傷つけられた」
「損させられた」
「騙された」

と受け取るのか

「一事が万事」
「いま失敗して良かった」
「いい機会だった」

と思うのか

どちらでも、いいですよね
どちらが正解で、どちらかが間違いではなくて
選び方によって、どんどん景色が違ってくる

一瞬、一瞬、選んでいます

人の顔を見て
自分の顔を鏡で見て
電車の広告を見て
ぶつかってくる人を見て
感じのわるい店員さんを見て
誰かのSNSを見て
彼から返信のないことを気にして
子供がわがままを言っているのを
旦那さんが昼過ぎまで寝てるのを

ついてない。と思うのか
あの人嫌だな。と思うのか
このヤロー。と思うのか
どうしよう。と不安になるのか

もう、どうでも、良くないですか?

だって、わからないんです
人のことはわからない

自分のこともわかってないくせに
人のことを全部わかろうとして

わかった、と思っても
自分なりの「わかった」であるだけで
本当のとこは分からないのです

だから、そこに時間を費やし
気持ちを注ぎすぎて自分を疲弊させ
それがイライラや不満に変わるのなら

とんだ茶番劇なのかもしれません
自作自演の悲劇

そこに、その事実があるだけ
どう色付けするかは自分次第で
自分で全部作ってるのだとしたら

どういう世界を作りたい?

作れるんですよ
いますぐに
自分の見たいように見たらいい

こういう話を書いてると

頭おかしくなっちゃった?とか
そんな都合良いことなんて、ない。とか
自分だけ幸せならいいの?とか

色んなことを思われるわけですが、

人の思ってること全て100パーセント、が別の人に伝わることは難しいので

私もあなたの気持ちを全部理解することは不可能なので

そこは誰でもお互いさまで

家族でも
夫婦でも
友達でも
会社の人でも

それ、いいね!と思うものだけ
もらっちゃえばいいんですよ

理解できないことがあって当たり前なのだから
お互いポンコツのままで
楽しくやるしかないんじゃないかな

と思ってます。